「私は傍役」~リーダーシップに関する一考察

人間、どうしても自分が主役で他の人間は全員、自分の舞台の脇役だと思いがちです。何か成果を上げると「俺が俺が」と言いたくなる。一方で失敗などすれば、「それは俺のせいじゃない」「それは間違っていない」などと言いたくなる。今回のコロナ騒動もまさにそれです。

遠藤周作に「私は傍役」というエッセイがあります。

芝居には傍役というものがある。
傍役は言うまでもなく、主役のそばにいて主役のためにいる役である。
その勤めは主役と共に芝居の運行をつくっていくのだが、
また主役を補佐したり、主役をひきたてるためにもある。
「あたり前だ。わかりきったことを言うな」とお叱りにならないでいただきたい。
しかしなぜ私がこんなわかりきったことを書いたかというと、我々は我々自身の人生ではいつも主役のつもりでいるからだ。
たしかにどんな人だってその人の人生という舞台では主役である。
そして自分の人生に登場する他人はみなそれぞれの場所で自分の人生の傍役のつもりでいる。
だが胸に手をあてて一寸、考えてみると自分の人生では主役の我々も他人の人生では傍役になっている。
(中略)
「あたり前じゃないか。またくだらんことを言うのか」とまたお叱りを受けるかもしれない。
だが人間、悲しいもので、このあたり前のことをつい忘れがちなものだ。
たとえば我々は自分の女房の人生のなかでは、傍役である身分を忘れて、まるで主役づらをして振舞ってはいないか。
(中略)
夜、眠れぬ時死んだ友人たちの顔を思い出し、俺はあの男の人生で傍役だったんだな、と考え、いい傍役だったかどうかを考えたりする。
もちろん、女房の人生の傍役としても良かったか、どうかをぼんやり思索もしてみる。
遠藤周作「私は傍役」(出典:生き上手死に上手)

東洋的な政治思想においては、十八史略の鼓腹撃壌(帝力何ぞ我に有らんや)や、淮南子の「陰徳あれば陽報あり」(「人間訓」)など、目に見えるような露骨なリーダーシップを嫌う傾向があります。『孫子』においても「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。 戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という文章があり、本当の「勝利」とは何かということを的確に表しているように思います。

日本においても古事記に「少彦名(すくなさま)」という神様が出てきますが、目にも見えない小さなこの神様が実に色々な働きをし、国づくりを手伝います。しかし小さすぎて誰の目にも止まらないので、誰もそれを「すくなさま」のおかげだとは知りません。だからこそ逆に信仰が厚くなります。この辺りを教育者の阿部国治は以下のように説明しています。

他人の命の発展になるような仕事をしても、それによって褒めてもらったり、名誉をもらったりしないようにしなければ、せっかくのよい仕事も、本当のよい仕事にはならないものだという事が、力強く主張されておるのであります。
『新釈古事記伝』第三集「少彦名(すくなさま)」

私自身、あるコーチング関係の方にアセスメントをしていただいたところ、セルフエフィカシーが平均よりも随分高いことが分かりました。その時にいただいたコメントが、

「セルフエフィカシーが高すぎる人は、全部自分でやってしまって、部下や相手からやる気を奪ってしまったり、可能性を奪ってしまうことが多い。もっと任せてみて、相手を褒めるなどした方がよい」

ということでした。「あなたが活躍しすぎることで周りは疎外感を感じる。逆にあなたのような人に褒められること、任されることによって周りはやりがいや嬉しさを感じる」と言われ、目が開かれる思いがしました。

最近のリーダーシップというのは変化の激しい時代、まさに方向性を示して人を引っ張っていくような人間が求められるわけですが、実はそれは「善の善なるもの」ではないのではないか、よく「部下が考えないんだよね」というのはそのリーダーシップの形態に問題があるのではないか、色々と考えさせられます。

「夜、眠れぬ時死んだ友人たちの顔を思い出し、俺はあの男の人生で傍役だったんだな、と考え、いい傍役だったかどうかを考えたりする」

さて、皆さんはどう感じるでしょうか。

参考図書

文春文庫『生き上手 死に上手』遠藤周作 | 文庫
死ぬ時は死ぬがよし……だれもがこんな境地で死を迎えたい。でも死はひたすら恐い。だからこそ死に稽古が必要になる。周作先生が自らの失敗談を交えて贈る人生セミナー。(矢代静一)
文春文庫『生き上手 死に上手』遠藤周作 | 文庫
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