人を育てるつもりで、苗を引き伸ばしていないか ~孟子の「助長」(2026年8月寺子屋「古典」)

2026年8月の寺子屋(古典)では、『孟子』の公孫丑(こうそんちゅう)篇を読み、参加者の皆さんと意見を交わしました。その中で、ある参加者が、人材育成の現場で「資格を取れ」と促している自分の関わり方は、苗を無理に引き伸ばすことになっていないか、と疑問を口にされました。
「助長」の話を、自分の仕事に引き寄せた問いです。ここからさらに考えてみたいのは、育てる側の熱心さと、育つ側にとっての利益が必ずしも一致しないという問題です。「本人のためを思っている」「これだけ時間をかけて教えている」。そう言えるだけの努力があっても、それが相手にどのような変化をもたらしているかは、別に確かめる必要があります。熱心さを、相手の成長につながる関わり方へ変えていく。その手がかりを、孟子の言葉から考えてみましょう。

1.苗を枯らした人は、クタクタになるまで働いていた


「助長」の寓話に登場する宋の人は、苗が伸びないことを心配して、一本ずつ引っ張ってしまいます。原文を読むと、帰宅した彼は家人にこう言っています。

今日病矣、予助苗長矣。
(今日病(つか)れり、予(われ)苗を助けて長ぜしむ)

今日は疲れた。苗が伸びるのを助けてやったのだ、という意味です。ところが、息子が見に行くと苗は枯れていた。働いた本人の実感と、畑で起きていたことが、食い違っています。この人は、怠けていたわけではありません。わざわざ畑に出て、疲れるほど働いている。だからこそ、この話は厄介です。同じやり方のまま努力を増やしても、苗は育ちません。彼の誤りは、苗の丈が高くなることを、そのまま苗の生長だと考えたことにあります。引っ張れば丈は変わります。しかし、生長に必要な過程を飛ばして形だけを先に動かせば、苗は損なわれてしまう。

人材育成でも、研修の実施回数や、資格を取得した人数なら数えられます。けれども、その数字と、本人が自分で考え、判断し、行動できるようになったこととの間には、確かめるべき距離があります。研修や資格という目に見える成果に加えて、本人が以前より考えられるようになったこと、任せられるようになった仕事まで見ているか。支援した内容と、本人に起きた変化を照らし合わせる問いです。この問いは、育成を仕事にする私自身にも向けられます。

2.「よく分かった」という感想も、成長の証明にはならない


では、資格の数や研修の回数よりも、本人の「学べた」という実感を重視すればよいのでしょうか。ここにも、ひとひねりあります。2019年に発表された、ハーバード大学の物理学の授業で149人の学生を対象にした研究があります。同じ教材を使い、学生が問題に取り組む授業と、講師の説明を聴く授業を比較したところ、前者では学習テストの成績が高かった一方、学生自身の「学んだ」という実感は低くなりました。Deslauriersらの研究・PNAS

分かった気がすることと、実際に理解していることは、ズレる場合がある。少なくとも、この授業の比較ではそうだったわけです。研修後の感想に加えて、学んだことを使えるようになったかを、どう確かめるか。企業研修を考える私たちにも、関わりの深い問いです。講師が滑らかに説明してくれれば、聞いている側は気持ちよく話についていけます。しかし、自分で問題を解こうとすると、分からない箇所で止まる。その止まった時間を、すぐに「授業がうまくいっていない」と判断してよいのでしょうか。

この研究から、苦労させさえすれば人は育つ、と言うことはできません。考えるための材料も説明もなく放置してよい、という話でもありません。むしろ、本人が何につまずいているのかを見て、必要な支援を考える仕事が、教える側に残ります。たとえば、部下に考えてもらおうとしたものの、沈黙が続き、上司が先に答えを伝える場面を考えてみます。答えを伝えれば、打ち合わせは速く進むでしょう。ただ、その沈黙が、考えを組み立てている時間なのか、手がかりがなく困っている時間なのかで、必要な支援は違います。

資格の取得件数も、研修の満足度も、会議の進みのよさも、それぞれ意味のある情報です。それに加えて、本人がどこまで自分で考えられたのか、何があれば次に進めるのかを確かめたい。教える側にとって滑らかに進むことと、学ぶ側の理解が進むことは、必ずしも同じではないのです。

3.「絶対、役に立ちますか?」~本人なりの学びの使い道を考える

今回の寺子屋では、資格を学ぶ目的とどう結びつけるか、という話にもなりました。私自身は資格取得にあまり関心がありませんが、目標があった方が勉強しやすいという人もいるでしょう。英語を勉強するなら、まずTOEICを受けてみようとするなどが分かりやすい例です。ですから、資格や試験を学習の目標にすることには意味があります。自分を勉強に向かわせるものがあるのは良いことです。

若い人と話していて、自己投資を勧めると「絶対、役に立ちますか」と聞かれることがあります。「それは自分自身で考えることだろう」と言うこともできますが、自分の時間やお金を使うのですから、何が得られるのかを確かめたいのは自然なことでもあります。学びを提供する私たちにも、何を学べるのか、どんな場面で使えるのか、身につけるためにどのような練習が必要なのかを説明する責任があるでしょう。学ぶ人が、自分の目的に合うかを判断できる材料を渡すことも、支援の一つです。

そのうえで、資格を取った後の使い道は、一人ひとり違います。「いま、どんな場面で困っているか」「学んだことを、最初にどこで試してみたいか」。そこまで一緒に考えられれば、「役立ちますか」という問いを、自分の学び方を選ぶ手がかりにできます。教える側が説明と練習の機会を用意し、学ぶ側が実際に使ってみる。その往復の中で、資格と自分の仕事がつながっていくのだと思います。

「助長」の寓話は、もともと「浩然の気」を養う話の中にあります。孟子は、それを「集義所生(しゅうぎしょしょう)」、義にかなう行いの積み重ねから生じるものだと説いています。具体的な営みの中で養われるものを、その営みから切り離して獲得しようとするところに、無理が生じるのでしょう。
現代の言葉に引き寄せれば、「主体性のある人材がほしい」として人材育成を考えながら、学ぶ目的も、やり方も、正解も、すべて上司が決めている場合が考えられます。その設計のどこで、本人が自分の判断を使うのでしょうか。主体性を求めるなら、本人の判断がこちらの期待から外れる可能性も、引き受ける必要があります。自分と違う意見が出たとき、まず、その人が何を見て、なぜそう考えたのかを聞いてみる。本人の意欲とともに、こちらが判断を任せる余地をどう作っているかにも、目を向けたいと思います。

4.草を取る ~本人が考える仕事を残す

意見交換の中で、参加者からは、苗を引き伸ばすより、きちんと草取りをするような関わり方が必要なのではないか、という発言もありました。原文も、手をかけても無益だと放っておく人を、草取りをしない人にたとえています。引っ張ることをやめても、草を取る仕事はなくならない。職場で任せるときも、困ったときに相談できるか、必要な材料が揃っているかを確かめる仕事が残ります。

では、職場で草を取るとは何をすることでしょうか。たとえば英語学習なら、海外の取引先から届く提案を自分で読み、疑問点を尋ねられるようになる、という仕事上の目的を置いたとします。試験の点数に加えて、実際の文章でどこが分からなくなるのか、自分でどんな質問を作れるのかを確かめる必要があります。語彙が足りなければ教材を探す。前提となる業務知識が欠けていれば、そこを説明する。学ぶ時間が取れなければ、仕事の配分も考える。育てる側には、手を動かす仕事がいくらでもあります。一方、本人が文章を読み、問いを作るところまで、全部代わってやってしまえば、その人が練習する機会は失われます。どこを助け、どこを本人に引き受けてもらうのか。その境目を考えるには、いま相手がどこで困っているのかを具体的に知る必要があります。

ここまで考えると、苗の比喩にも、さらに問いを返したくなります。人は、自分が何を目指すかを考えられる存在です。育てる側だけが、伸びる方向も、望ましい姿も決めてよいのか。人材育成には、相手の志を聞く仕事もあるはずです。今回、参加者が「自分は苗を引き伸ばしていないか」と疑問を口にされたことは、まさに育てる側が自分の行為を省みる、その一歩でした。

皆さんがいま誰かの成長を支えようとしている場面を、一つ思い浮かべてみてください。その人が自分で考え、判断するために、どんな材料を渡し、どの部分を任せられるでしょうか。自分が何を教えたかに加えて、相手が何を考え、何ができるようになったかを確かめる。その視点は、育成を仕事にする私も、持ち続けたいと思います。苗を引っ張った人も、疲れるほど働いていたのですから。


本人が考える時間を支えながら、いつ、どのように手を貸すか。この問いをもう少し考えてみたい方は、関連記事「答えを教えることよりも問いを持たせること ~啐啄同時を考える」 もお読みください。

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